昨日は一日家事をだらだらとこなす。夜エリセの新作を見に行くかと予約しようとしたが、開始時間と終了時間になんか違和感が…新作は170分だった。明日気合をいれなおして見に行くか、と出かけるのは止めにした。

私は髪の毛を切るときは吉祥寺の美容院に行っていて、吉祥寺まで足を運んでいるのはそれくらいの用事を作らないと吉祥寺には行きそうにないからという程度の理由で、といって特別に吉祥寺に愛着があるわけでもない。なんで吉祥寺なのか深く考えたことはなく、ずっと昔から髪の毛を切るときは吉祥寺の美容院でとしていた。いや上京して知り合いにすすめられた一発目の美容室が吉祥寺だったのが事のはじまりで、そこからの延長でずっと吉祥寺に行っていただけだわ。と、それはまあどうでもいいのだが、いま利用している美容院の近くには百年という割とユニークな古本屋があり、髪の毛を切ってもらった帰りはだいたいそこにも寄るようにしている。そこで委託販売?されていた『手のひらたちの蜂起/法規』を購入したのだった。その日から前にも書いたが寝る前に数ページずつ読むかたちで読み進めていったのだが、はじめて27ページ目にさしかかった日は手が止まり、目も止まったものだった。そのページはあきらかにそれまでのページとは違っていて、どこに目をつければいいのかさっぱりわからず、そもそもをいえばその詩集は1行目からして意味がまったくわからなかったといえるが、そういう意味のわからないと27ページはまた別で、つまりどこから読めばいいのかどこがそのページの始点なのか、文章の意味の前にまずどこからはじめていいのかそれがわからないのだった。それはそう、ふいに落丁・乱丁に出くわしてしまったかのような戸惑いだった!(これはない。奥付に寄せて書いてるのがみえみえだった)

27ページは開いた詩集の左ページに位置しており、言葉が全部で4つのブロックにわかれている。上から数えていくと、ページの左上に「水泳!」の3文字、真ん中の上方に12文字×9行で書かれてある文章、ど真ん中に「27」のノンブル、その下方右寄りに19文字×5行で書かれた文章(真ん中上の第二ブロックを便宜的に「彼女の部屋」、右下寄りの第四ブロックを「彼の部屋」としておきたい)。「彼女の部屋」は中断なしの一息にながい文章となっており、文末に読点がひとつ打ってある。「彼の部屋」は途中に三度、読点を挟んで文末には句点。

さてどのブロックから手をつけていくべきだろうか。ここはやはり一番目立つページの中央、そのページの主役またはリーダー面した「27」からだろうか。前にも書いたがこの詩集のノンブルは全ページに記されてあるわけではなく、まるで数を読む声が息切れするかのように途切れ途切れにその足跡/息跡を記している。数ページ前からその兆候をみせていたが、27ページのノンブルは、詩の本文に過度な介入もしくは接触をおこなってはいないだろうか。そもそも、文字の占める領域のすくなくなりがちな詩集において、中央を位置どること自体がノンブルの性格を大きく逸脱してはいないだろうか。通常、紙片のすみに陣取り、目立つことを避けがちな数字たち、そんな陰キャな数字たちの蜂起の一声、声なき声、文字なき声が27ページの中から聞き取れないだろうか。この詩集の本文において数の表記は漢数字がもちいられており、「(番号をつけ忘れている)」「縁取り+椅子+通り=灌木-花瓶」(11ページ3行目、5行目)と数字の存在は等閑視されているかのような扱いも見受けられる。またおそらく唯一のアラビア数字を使った詩行・58ページ3行目「しっぽが32メートルしかないんだから仕方がない」、32はこの詩集のちょうどど真ん中にあたる数であり、当の32ページは白紙(ど真ん中のど真ん中は空白)でそのページからノンブルは姿を消している、ひょっとすると犬の背中につながる体長の半分を占めるほどのなが~いしっぽにこっそりと化けているのかもしれない。そんな数字たちの蜂起のなかにあって27ページのノンブル、27は、2×7、もしくは2・7、(2/7いやこれだと間違う)、2-7、二の七、ふたつのななは、本文の流れの中に、詩行の一つと化して真ん中に配されているかのようにも読めてこないだろうか。こないか。わからん。ともかく私には「27」をどこに置くべきか、どこに置くことが「27」にふさわしい位置となるのか、まったく見当もつかないのだった。

(つづく)