『ハム・オン・ライ』これは苦痛だった。85分しかない映画なのに2時間以上あったんじゃないかというくらい体感時間をながく感じた。ハル・ハートリーが絶賛という時点で止めておくべきだったが、文字情報のあらすじで気になって見に行ってしまった。

『ヴィクラムとヴェーダ』バーフバリ、RRR人気もあるしもっと大きな映画館で流れてもよさそうに思ったくらいエンタメインド映画だった。今どきびっくりするくらい男くさい映画だったが、とくに音楽による演出がベッタベタなくらいかっこよくて、もう主題歌が流れてくるだけでにやける。インド映画は内容の雰囲気を壊そうが何だろうが何がなんでも踊らにゃならんのかと途中ではいるヴェーダのダンスシーンもさすがのかっこよさ。

昨日はほんとうは千葉市美術館に行きたかったのだが、時間のやりくりで鑑賞時間が確保できないかもと思い、近場の北斎美術館に行ったが、体調不良がおこらなくすべてをじっくり鑑賞していたとしたらこっちでも時間カツカツだった気がする。昨日はつらかったつらかったと書いてはいたが、なんだかんだで3時間くらいは美術館にいた。戦闘シーンを描いたものの中でも雷がからむ絵がどれもこれもやたらとかっこよかった。あと日本刀、近年の抹茶にハマった影響もあって、日本の伝統工芸品を見る楽しさを感じられるようになった。今回刀が二振りと槍先?が1本展示してあったが、1000年前の作りであの表面のツルツル具合はどうやって磨き上げたんだろ。あの表面のツルツルピカピカ具合だけ時代を突き抜けてないか。何百年の錆ずに保管されてるというのもすごい。(絵画みたいに修復されたものもあるのかもしれんが)

笹野真『手のひらたちの蜂起/法規』引きつづき読んでいるが、なかなかはっきりと手で掴めるような所どころか指先を引っかけるほどのとっかかりも見つからず、どんどん思考の泥沼にはまりこんでいく。しかしこの泥沼を脱しようともがきつづける事ができる事こそが、良い詩集、良い芸術作品の条件のひとつではないかとも思っている。とはいえ脳みその整理と活性化のために、両手をつかって文字を打ち込み、現時点での考えをまとめてみたい。両手、ふたつの手のひら、今やキーボードを打ち込むことくらいでしか役に立たない我が手のひらたちを使役し、酷使し、縛り、絞りあげ、一手にまとめて吊るして、誰が主であり誰がルールなのかをたっぷりとどやしつけて最終的に火刑に処してやらねばならん。

まずひとつ私にもわかる確かな事として、この詩集の詩たちには一切タイトルがない。出版元の紹介文にもそう断言されてある。

このことは本当だろうか?詩の本文とタイトルをわかつ明確な線引きは果たしてあるのだろうか?

『水で満たされたランプの芯には、何度火をつけても火はともらない。どんな言葉にすればいいのか、わからなかったから、ただ彼らの眼を覗きこみ声を聞き、舌で丸い額を舐め、どんな形も持たぬ酸っぱく鉄のように冷たい感情の寡黙さを知るだけだった。どんな一日だって何かを語る。だから彼らは座りこみ、内から外へ皆を呼び戻すための歌をうたう。』

詩作品ではないが、これはとある芸術作品のタイトルである。少なくともタイトルとは文字数や句読点にしばられるものではない。何が本文で何がタイトルなのか、本文を読んでいたと思っていたらタイトルを読んでいたということは果たしてありえないだろうか。タイトルが本文に対して不満を抱き、蜂起する詩集、タイトルが本文を偽装する詩集だってありえるかもしれない。

いやない、ないな。これを書いたのは、これらの文字を打ち込んだのは私の手のひらたちが、考えなしに勝手にしたことであり、私は出版元に書いてあること、公式の言葉に逆らおうなどと考えたことはこれっぽっちもないです。

(つづく)