『海街奇譚』と『緑の夜』鑑賞。中国な一日、いや後者は韓国が舞台だったが。海街の方はかなり面白かった。とちゅうダラダラしてたところもあったが、アクションシーンは鈴木清順みたいにすぱっといくし、閉じられた小島のなかをカメラをもってうろつく変態殺人者という主人公の役柄が、ARG『覗くひと』を連想させて好みを突かれた。『緑の夜』はいい感じのハードボイルド映画だった。寡黙な主人公とファムファタルな緑髪の女という正にハードボイルド直球な組み合わせだが、主人公も女性なため男主人公とは違うタフさにひねりがくわわってて、ラストまでつづく絶望感からのカタルシスは手持ち撮影で揺れる画面から受ける3D酔いや説明くさい映像の下手さ加減も忘れてスカッとさせられた。途中の刑事の役所だけよくわからんかったが、あれは単に汚職刑事という事でよかったんだろうか?それにしても誰がなんのために手配したのかという謎ものこるが。

去年末に渋谷の店頭でみかけて欲しいけどと悩んでいたスウォッチとコラボしたシンプソンズ腕時計をとうとう買ってしまった。

いい歳したおっさんがこんなカラフルな時計をするのは…等といった卑屈な気持ちはさらさらないが、スウォッチはベルト交換が気軽におこなえる形でないのがどうにも好きになれなくて迷いに迷っていた(日中に渋谷をうろつく機会がなかったのもある)けど、まあ買ってしまった。ドーナツのイラストもいいけど、針のデザインがなんかよくってそこが決め手となりました。

 

つづき。37ページには横書き8行の詩があって、3行目に例のタイトル/詩があるんだが、垂直方向の読み筋は今のところまったく掴みどころが見つからないのでだんまりである。55ページ6行目、水平を計画しなさい、つまり詩とタイトルとの連関だが、これを自己模倣、自己物真似と見てもよいのではないだろうか。タイトル/詩に書きこまれてある法、それは語をずらし、模倣し、右左をパタンと入れ替える事である。蜂起は法規、法規は蜂起。右手のひらは左手のひらに、カエサルのものはカエサルに、キレイはキタナイに。手のひらたちによる手のひらたちのすり替え=イカサマ。交換可能性、ロカカカの実の等価交換性が、タイトル/詩の一文にはつねにすでに書き込まれてある。

奥付にはタイトル、詩人、出版元の名、詩集、著者、その他もろもろが縦書きと横書き、あといぬのせなかのイラストと混在で書かれてある。ここにある最後の一行、日本語で書かれた最後の一行、手のひらたちの法規の後に置かれた最後の法規として「落丁・乱丁本はお取替えいたします」とあるが、あらゆる出版物につきもののこの法規のなかの法規がかつてこれほど意味をなさない書物があっただろうか。断言できるが私には『手のひらたちの蜂起/法規』に落丁・乱丁があったとしても、絶対に気づくことはない。このことはこの詩集に印字されたページ数のあり方が大きく関わってもいる。この詩集にはページの中央にページ数、いわゆるノンブルが印字されてあるのだが、それは右か左、開いたページのどちらか片方というルールがある。どちらに印字されるかはおそらくランダムであり、そのうえさらに左右見開き空白という2ページが、6ヵ所挿入されてある(ちなみにこの空白は扉・奥付を除くと本文を5つのブロックに分けている。これは手のひらから切り離された手指なのか、暦にして放棄される五人分の影なのか)。ノンブルがもし右側だけ、もしくは左側だけといったルールにしばられてあるなら、一枚のページの裏表のどちらかにノンブルがあるわけだが、この詩集ではランダムなため裏表どちらもノンブルがないページがいくつも存在する。もしこの本の糊付けが剥がれて、ページがばらばらに落ちたとすると、元通りに復元することは不可能に近い。このような仮定に仮定を継ぐような話は冗長に過ぎるかもしれないが、そうじゃない。このような落丁・乱丁の確認不能がおこりえるのは、この詩集が、詩集そのものが交換可能性、ロカカカ等価交換性に結ばれているからこそである。法規(手のひらたちの交換可能性)が法規(落丁・乱丁本の交換可能性)に蜂起する。

タイトル/詩が交換可能なように、右ページ/左ページは交換可能なのかもしれない。扉/奥付は交換可能かもしれず、詩/詩もまた。

(著者またはレイアウトデザインした人、詩の並び順を考えた人にケンカ売ってんのかという内容になってしまっているが、もうすこし猶予をほしい。私がこの詩集最大の問題(この問題はハムレットの問題と同じ読み方で)と見ているページへと至るのにまもなくなので。つづく)