もうすこしタイトルについて。というか最後までタイトルについてしか書かないかもしれないが。「手のひらたちの蜂起/法規」この記述、マニフェスト、法令は『手のひらたちの蜂起/法規』のなかに5回出てくる(見落としがなければ)。1つ目はカバー、2つ目はカバー下の表紙、3つ目は本文1ページの扉、4つ目は37ページの3行目、5つ目は64ページの奥付。

このタイトルかつ詩の一節でもある一文は繰り返し、反復、重ね合わせ、折り畳み、などといった効果が読み取れるが、同時に反目、ずらし、裏切り、切り裂き、などといった効果も見て取れる。

カバーと表紙をすっとばして本文から見ていくと、扉には縦書きで詩人、タイトル、出版元の名が縦書きで3行にわけてある。詩人の名は後にまわすが、出版元の名称「いぬのせなか座」これだけでもすでに詩の一節であるかのような重層性が感じられる。いぬ座でもせなか座でもなく、はたまたこいぬのせなか座でもない、いぬのせなか座。「犬」も「背中」も「座」もこの詩集ではいくどとなくお目にかかるが、この「いぬのせなか座」が出版元の名ではなくタイトルである可能性、タイトルとしての資格、タイトルに成り代わり乗っ取るような企みはないと言い切れるだろうか。扉に関するルール「消える扉を走らせると消えるドアが選択されドアをノックするんじゃなくてノックしたところがドアなんです」20ページ5行目。扉はドアへとずらされ、ドアとノックの関係は主従が逆転するかのようにして反転させられる。1ページは扉=詩の本文の外、扉の前に位置していたはずのこの1ページは、扉の内、内と外をわける境界線の上をまたぎ、詩の本文に第一歩を踏み出している。タイトルは詩であり、詩でもあり、乗っ取られたタイトルがあるのであればそれもまた詩である。誰もがこう思うだろう、何を読ませられているのか。

タイトルに戻ろう。ノックとは通常手の甲、手の背中、もしくは折り曲げた指の背中で叩かれるものであり、手のひらでノックするとすれば、それはいささか礼儀に反した行為、常識に反した行為ともみなされる。手のひらたちの蜂起、常識=法規から切り離され、常識=法規に反逆する第一の蜂起。手のひらたちでのノック。あるいは折り曲げられた犬の背中でのノック。手のひらを背中と入れ替える、と51ページ7行目には書かれてある。そう、掟の門前ならぬ掟の扉前、ここをパスするには扉の内にいなくてはならない。この順序の転倒、論理の反転、時間錯誤、パンがなければケーキを食えのごときすり替え、万国の手のひらたちよ、もう一息だ。蜂起のための法規、詩を読むこと、できれば何度も繰り返し。詩に沿って/反って。

最後に手のひらとは何か。辞書によると、手首から指の付け根までの、手を握ったときに内側になる面をさすらしい。という事は手のひらから5本の指は切り離されているということか。手のひらでキーボードを打つなんてキーボードクラッシャーのイメージしかない。

(つづく)