夢。ひさしぶりに起きてもはっきりとおぼえていた。知り合いと廃病院に突撃することになり、病院の入口をくぐると勝手にドアが閉じてしまい、さっそく知り合いと分断されてしまう。やべーやべーと怯えながら近くの診察室に入ってみると医者の位置に全裸の綾野剛が足を組んで座っている。こちらの隣にはナースだと認識しているが、革ジャンを着た短髪の冷たそうな若い女が立っている。綺麗な顔立ちのナースだったので気を惹こうと「綾野剛のすね毛すごくない?」と話しかけるも完全に無視される。そしたら綾野剛が立ちあがって、向こうの方に歩いていってしまう。どっか行ったなと思っていたら、キラキラした衣装を着た綾野剛が戻ってきて、歌を歌いだす。あーこれ廃病院じゃなくてライブだったのかと気づいて安心したが、綾野剛にまったく興味がわかないので、隣のナースにあれこれ話しかけるが、ぜんぶ「興味ないです」と冷たくあしらわれる。そのうち歌が終わり、綾野剛がこちらにかえってきて、向かいのソファに座る。こちらはナースと話したいのでどっか行ってくれねーかなと思っていると、綾野剛が「時間が余ったな」とつぶやいた途端、すべての電気が消えて真っ暗になる。暗がりで綾野剛がこちらに近づいてきたと思ったら、両手で肩をおさえつけられ、とうとつにキスされる。舌もいれてこようとするので、くちびるをぐっとふさいでいると、口のまわりをべろべろ嘗め回される。心の中で「やめてー!」と叫んでイヤイヤと顔を左右に振っている最中に目が覚めた。歴代でも上位にあがるきもい夢だった。

目が覚めて眠れなくなったので、DVDで『怪人マブゼ博士』を見た。小説で「1000の目」という言葉が使いたくなり、どういう映画だったか見返してみた。最初と最後だけ見返すつもりが、けっきょく通しで全部みてしまった。そうだそうだ、マブゼ博士が出てこないマブゼものだった。ヒロインの女性の立ち位置が不安定だし、ホテル中の隠しカメラやマジックミラーで監視されているしで、これなら「1000の目」を小説に使ってもズレてはいないだろう、よかったよかった。

お昼過ぎまで掃除・洗濯とアイロンがけをして、『愛の世紀』『アワーミュージック』を見て、『奇妙な戦争』を見に行った。メインビジュアルの絵だが、よく見たら1番と40番の絵は別々の絵だった。

キンロー。クローゼット、ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス、文庫と詩集。ソル・フアナの光文社文庫本が面白かったが、本の大半が手紙に占められていて、詩が少なかったので、ロス・クラシコスの抒情詩集を買って読んでいるが、とても面白い。詩の翻訳は韻律や地口は失われてしまうが、面白いのでよし。

仕事中も難問について何度か考えをめぐらしてみたが、まるで歯がたたん。雰囲気でしか納得できず、その違いを言語化できない。

小説制作もだいぶ仕上がってきた。今は断片ばかり書き出しているが、そろそろひとつにまとめられそうではある。ただ読書が終わっていない。前に積み上げた本のうちまだ4冊しか読んでないという計画性のなさ。リストをもうすこし絞り込んで本格的に完成を目指したい。

昨日はたまたま予約時間帯に自分以外いなかったと書いたが、よくよく考えるとこれ1時間枠に1名限定なのかな。あと昨日は興奮のいきおいで書き散らしたが、作品に書いて説明している部分は実物ないとなに言ってんのかよくわからんな。《Who Knew Cat Nowhere》ボックスの紹介画像にあるドローイングが新作を小さくしたものなのでこれを参照に想像してもらうといいかと思われる。あと絵本の内容はこれに付いてるミニ絵本とおなじものだと思う。

岡崎展をみたあと新宿にもどってちょうど上映時間の回があったのでゴダール/遺言をもう一度見た。メインビジュアルに使われているゴダール直筆?の黒の上に赤い絵の具でガッと描いてある絵は映画の最初の1コマ後・最後の1コマ前に2度使われているのだが、1つ目の絵をみた瞬間これ岡崎氏のWhoちゃんじゃないかと見なしてしまうのは仕方なかっただろう。しかも次のコマではゴダール直筆?で『暗い部屋で黒猫を探すのは難しい/そこに猫がいなければなおさらだ』という何かの引用なのか謎の箴言エピグラフが出てくるのだから。そして次のコマではキャノンの印画紙かプリント用紙の裏紙がブランクとして写されるのだが、この暗い部屋=カメラ映写機から映写される白い裏紙に猫の影は映っているのかいないのか。このあたりの笑うしかない提示のテクニックは実にゴダールだが、このとき私の脳裏=暗い部屋では岡崎氏の猫ちゃんが振り回される紐に飛びついて暴れまわっていたのは間違いない。

延期となっていたパンフレットが販売されていたでの買った。1週間で作り直しんだろうか。なんか表紙の手触りも高級そうだしこれはサンローランパワーか?

アワーミュージックはそのうち見返さないといけないが、奇妙な戦争で使われていた「大人がいない」というのは確か愛の世紀だったはずなのでこちらも見返して確かめてみないといけない。そういえば愛の世紀は主演を務めるはずだった女性が亡くなって映画製作が中断される映画だった。奇妙な戦争では冒頭に二人の女性が並んで立ち、片方の女性が語るという体のオフの声があった(パンフの堀潤之氏の解説を読むと『アワーミュージック』のオルガのモノローグ)が、もう一人の顔の見えない女性とは、あるいは愛の世紀の女性でもあるのかもしれない。

ゴダール/遺言はあっという間に終わるので、もう一本『ミレニアム・マンボ』を見て帰った。チケット購入して気づいたが、3/1・映画の日だった。これがもう20年も前の映画なのか…愕然とするな。この映画が公開されていた頃の日本というか東京はまだまだ生活の張りも文化の活気もあったよなーと、かつてのだいにっほんの栄光を振り返る耄碌爺みたいなイタイ感想をいだくのだった。映画としてはこの破滅的な夜の人々の生き様に共感することは1ミリもないのだが、そこに映されるミレニアムな景色、ナイトクラブや冬の夕張・東京の大久保!の景色には、見るものの感情を震わせるなにかが明確に刻まれていると思う。映画内では10年後の、リアルでは10年前の時点のヴィッキーと、鑑賞者の2001年を見つめる視点はここでぴったりと重なっているように感じられた。泣けるぜ(ダーティハリー

TSCAに行ってきた。

天王洲橋からの景色。早朝まで雨が降っている音が聞こえていたので今日も雨かと思いきや、日中はまるっと晴れ渡っていた。TSCAに行くときはかならず雨の日だったが、今日はついに濡れずにギャラリーに行けた。

岡崎乾二郎の小さな展覧会を見てきた。会場はTSCAのプライベートスペースに展示があって、ちょうど私だけしか予約をいれてない時間帯だったみたいで他に人がいなくて、ギャラリーのオーナー(だと思うが間違っていたら申し訳ないです)の染谷氏にありがたくもいろいろお話を聞かせてもらいながらの贅沢な鑑賞となった。

2/22の猫の日から開始された展覧会らしく猫の作品ばかりが展示してあった。《whoʼs who》19点は(そのうちの数点がポストカードにもなっていて、2/23に私も飾ったがやつ)、染谷氏からこれが機械で描かれていると教えてもらって、これもそうだったのかと今さらびっくりした(T.T.T.Bot)。あとは今回の目玉?の《Who Knew Cat Nowhere》ボックスの絵本と彫刻と小さなドローイング作品に、数十年ぶりらしいブロンズ彫刻が1点(タイトルが書いてあったが、覚えきれなかった)、そして最新作のドローイング(タイトル未定とあった)が8点展示されていた。

いろいろな猫が展示されてあったが、世に言う猫の液体性が一息になぞられたような絵筆の線やブロンズの塊にすてきに落とし込んであって、どれもこれもシンプルに見えてあー猫だなーと感嘆してしまうのだが、そのなかにあっても新作の8点はひさびさに岡崎氏の天才ぶりを直に感じる驚異の作品となっていた。これは本当にすさまじかった。作品としては紙に、立体作品に使う粘土を絵具と溶かしたもので猫のさまざま形態がのっぺりと描かれてあり(絵自体の猫は非常に平面的といっていい仕上がりになっていた)、そのうえに細めの縄やさらにほそめの麻紐っぽいものが植物のつるのように自由に這わせてあるのが直接接着されてあり、それが深めのボックス型の木枠におさめてあった。ボックスは壁ではなく床に置かれて見下ろす形で展示してあった。

ボックスの大きさが微妙に紙のサイズより小さく作られてあって、そこに紙をおさめてあるため、紙片のあっちこっちが凸凹に湾曲して、奇妙な立体感を演出していた。

その紙の立体感と、さらに粘土で描かれた猫の上を這う縄や紐からは、まさに紐と戯れる猫の激しい運動そのものが浮かび上がって見えてくるという驚異としか言いようのない作品となっていて、これにはもう興奮しかなかった。ピカソのギターとデュシャンの階段をおりる裸体を足しただけでじゃ足りないくらいすごかった。それら新作も含めて今回の作品は大半が購入可能となっていて、値段も岡崎氏のネームバリューでいえばかなり抑えられた価格ではあった(2/22にちなんだ洒落た価格設定になっていた)。正直買えない金額ではない、2か月くらい質素に暮らせば買える金額ではあったんだが、迷いに迷った末に購入を見送ってすごすごと帰ってきたのだった。今もまだ後悔がのこっている。買う買わないは置いておいて、私のウサギ小屋レベルの部屋では飾る場所がもうないんだよな…あと岡崎作品はポンチ絵を1点飾っているので、いろんな作家の作品を飾って楽しみたい私としては、そこも迷いポイントのひとつではあった。もしポンチ絵を買っていなかったら、間違いなく買っていただろう…

(というかそれで考えると10年くらい前とはいえポンチ絵ってめちゃくちゃ安価に設定されてあったんだなと改めて思う。新作ドローイング1点でポンチ絵6点くらい買える価格じゃなかったか?)

まだ期間はあるので、チャンスはある。売り切れてなければ。新作8点は3点が売約済だったが。というかそういうの抜きにしてももう一回見にいきたい。

やはり昨日のつづきの読解は全面的に誤っていた。私は(1b)を『ディズニーランドは、Aができる』と見なそうとしていたが、『(1)ができる』と読める以上、けっきょく(1)の文章の重複はなにも解消されていなかった。

そして人に置き換えて読み解こうとしたのも間違いで、文意の重複などいたずらに問題を複雑化していただけだった。あと『人種を問わず』を抜いたのも間違っていたかもしれない。

たとえばディズニーランドを紹介する文章を書くときに、私なら(1)の文章ではなく(2)の文章を選ぶ。(1)の文章を活かした形でと注文が入ったなら、(1b)の文章になおす。このときの(1)の文章に対する違和感だな、これをしっくりとこない気持ちをつきつめて考えていくとよさそうだ。

よさそうといっても何かが見えてくるわけではないが…

難問のつづき。

ネットで日本語の文法について解説しているサイトを眺めながら考えをこね繰り返していたら、はたとこれはこういう事だったのではないかという考えが浮かんだので追記してみる。

参照したサイト。

 

まず文章をわかりやすくするために短縮してみる。

(1)ディズニーランドは、誰でもおとずれる。

(2)ディズニーランドは、誰もがおとずれる。

(1b)ディズニーランドは、誰でもおとずれることができる。

 

これを場所ではなく人に置き換えて考えてみる。

(A)伊勢守は、誰でも切れる。

(B)伊勢守は、誰もが切れる。

(Ab)伊勢守は、誰でも切ることができる。

(Ab)では「切れる」を「切る」に変形しているが、意味としてはおおきく変わってはいないと思う。

ここで問題は(A)だと伊勢守は、(B)のように誰からも切られるめちゃくちゃ弱い剣士と読めると同時に、どんな人間でも切りふせてしまうめちゃくちゃ強い剣豪にも読める形になり、「切る」主体が二通り(伊勢守/誰でも)に読めて文意が重複している。これは(1)でもおなじなのだが、しかし常識的に考えてディズニーランドという場所に足が生えて人をたずねてまわる事はありえないのだから、(1)において文意を重複して読む人はいないといえる。ただし文章の形として重複した状態は残ったままなので、それがどこか不自然さとしてひそんでいるのではないろうか。

しかし(1b)(Ab)においても重複した文意というのは残ったままではあるのだが、文法サイトによると格助詞『が』は主語をつくるとある。

(1)ディズニーランドは、誰でもおとずれる。

(2)ディズニーランドは、誰もおとずれる。

(1b)ディズニーランドは、誰でもおとずれることできる。

(1)では類推される『でも』の文意が重複し、主体がディズニーランドにもなりえるので、違和感がのこりつづけるが、(2)(1b)では『が』により、おとずれる・できる主体が誰=人の方に強調されて、文章の意味のとおりが良くなるんじゃないか。

いや、だめか。(1b)の重複が解けたといえんし、(1b)を繰り返し読んでるとディズニーランドにふたたび足が生えてどっか行きそうになるので、完ぺきにはほど遠いが、これで生徒を言いくるめることはできないだろうか。いや、教師としてはそんな出鱈目な態度ではいかんのか…

もうちょっと考えてみます。

三宅さんのブログの難問を考えていると問題は解けないが時間はどんどん溶けていくのだった…

鍵付きブログなので、内容をすこし変形して示しておくが、日本語を習うある生徒が、

(1)ディズニーランドは、人種を問わず、誰でもおとずれる。

という例文を書いてよこしたのだが、教師にはそのままだと不自然に感じられる、そこで、

(2)ディズニーランドは、人種を問わず、誰もがおとずれる。

および、

(1b)ディズニーランドは、人種を問わず、誰でもおとずれることができる。

という修正案を提示したのだが、なぜ(1)がダメであるのかがうまく説明できないという。

繰り返し上の文章を読みかえしているとそのうち(1)の文章は何もダメじゃないんじゃないかと思えてくる始末。これもゲシュタルト崩壊というやつなんだろうか。普段から日本語で読み書きしているのだから、二つの文章のびみょうな違いは直感的にわかる気はするが、それを文法的にこちらがこう、あちらはこうなどと理解するスマートな頭脳はない。

 

 

ーーと、書いたあと何度も文章をいじくりかえして考えてみたが、気づいたら6時間くらい経っていた。はじめは(1)がダメな前提で考えてみたが、途中から(1)が本当にダメなのかどうかダメでないまでも不自然かどうかを考えてみたが、最終的にはわかるかーっとなってPC電源をオフして昼寝した。

起きたら夜でうるう日が終わろうとしている。