難問のつづき。

ネットで日本語の文法について解説しているサイトを眺めながら考えをこね繰り返していたら、はたとこれはこういう事だったのではないかという考えが浮かんだので追記してみる。

参照したサイト。

 

まず文章をわかりやすくするために短縮してみる。

(1)ディズニーランドは、誰でもおとずれる。

(2)ディズニーランドは、誰もがおとずれる。

(1b)ディズニーランドは、誰でもおとずれることができる。

 

これを場所ではなく人に置き換えて考えてみる。

(A)伊勢守は、誰でも切れる。

(B)伊勢守は、誰もが切れる。

(Ab)伊勢守は、誰でも切ることができる。

(Ab)では「切れる」を「切る」に変形しているが、意味としてはおおきく変わってはいないと思う。

ここで問題は(A)だと伊勢守は、(B)のように誰からも切られるめちゃくちゃ弱い剣士と読めると同時に、どんな人間でも切りふせてしまうめちゃくちゃ強い剣豪にも読める形になり、「切る」主体が二通り(伊勢守/誰でも)に読めて文意が重複している。これは(1)でもおなじなのだが、しかし常識的に考えてディズニーランドという場所に足が生えて人をたずねてまわる事はありえないのだから、(1)において文意を重複して読む人はいないといえる。ただし文章の形として重複した状態は残ったままなので、それがどこか不自然さとしてひそんでいるのではないろうか。

しかし(1b)(Ab)においても重複した文意というのは残ったままではあるのだが、文法サイトによると格助詞『が』は主語をつくるとある。

(1)ディズニーランドは、誰でもおとずれる。

(2)ディズニーランドは、誰もおとずれる。

(1b)ディズニーランドは、誰でもおとずれることできる。

(1)では類推される『でも』の文意が重複し、主体がディズニーランドにもなりえるので、違和感がのこりつづけるが、(2)(1b)では『が』により、おとずれる・できる主体が誰=人の方に強調されて、文章の意味のとおりが良くなるんじゃないか。

いや、だめか。(1b)の重複が解けたといえんし、(1b)を繰り返し読んでるとディズニーランドにふたたび足が生えてどっか行きそうになるので、完ぺきにはほど遠いが、これで生徒を言いくるめることはできないだろうか。いや、教師としてはそんな出鱈目な態度ではいかんのか…

もうちょっと考えてみます。