三宅さんから丁寧なメールをいただく。そこからいくつも『双生』読解の鍵をいただいた気分で、ますますいろんな角度から作品を切り開いていきたくなってくるのだった。今は適当に開いたページを数ページ読んでを繰り返しているが、それでもいろんな事を忘れていたり、読み飛ばしていたりしたのを発見して、なるほどと思ったり記憶力のなさを嘆いたり。

メールの最後で一言だが『囀りとつまずき』への言及があった。そういえば私は『囀りとつまずき』をバルト『小説の準備』になぞらえて、バルトの書くかもしれなかった小説とは『囀りとつまずき』のようなものだったのかもしれない、みたいな事をまえに書いたのだが、『小説の準備』第1部では、俳句、メモ書き、引用、日記、といった短文をつなげて長編にしたいみたいな計画が語れていたような気がするが(記憶違いかも)、バルトの死によって中断されてしまった第2部ではそれら「断章的な短文をあつめてあわせた長編」の理想の形としてプルースト失われた時を求めて』について語られるはずだった、という講義録だったと思うが、で、私が『囀りとつまずき』を重ね合わせていたのは『小説の準備』の主に第1部の方だったわけで、もし『囀りとつまずき』の断章形式がひとつにまとまった長編になるのだとしたらどういう形になるのだろうと夢想していた事もあるのだが、まさしく『双生』こそがその現れと言ってもいいかもしれない。

『双生』の文体、読むもののめまいを誘うあの息のなが~い文章の連なり、あの文体に似ているものを探すとなると筆頭はプルーストではないだろうか。そしてプルーストを読む人間、読み通した人間が少ないというのもまた…(これは戯言)

(ここで語った似るというのは作家・作品のオリジナリティ云々に関わる方の話ではなく、個々の作家・作品の系譜としての似る、似た香りがする、といったような方の話なのだという事だけは断っておきたい)