家で落ち着いて『双生』の紹介サイトを確認しようとしたら非公開になっていた。もしかしたらまだ準備中だったのをフライングで紹介してしまったかもしれない…ま、まあ、このブログなんて読んでる人いないから大丈夫だと思いたい。

『囀りとつまずき』の読書メーター欄をひさしぶりに見たら俺の感想しかないじゃないか!読み終わった読書家も2名だ!とはいえ私も読書メーターの利用なんてほとんどしなくなったので、読書メーター自体が機能してないだけなのかもしれないが。

それはおいとくとしても『囀りとつまずき』をどう受け止めていいか図り難いという感想はあるかもしれない。三宅さんによるBCCKSの紹介文では「小説」とあるが、これは私の知るどの小説とも違った。日記とも違うし、エッセイ集とも違うし、SS集とも違う。この作品から感じられるどれとも違うという強烈な違和感が、しかしこれは間違いなく「文学」である、というゆるぎない確信と相まって、というかぶつかり合って、私の世界観をおおきく揺さぶってくる。これまでの小説観にあてはまらない「小説」。これは「新しい小説」ではないかという衝撃。

晩年のバルトが小説の執筆を計画していたが(個人的には仮に交通事故を逃れてバルトの生が続いていたとしても、たぶんバルトは小説を完成させることはなかったんじゃないかと思いはするが)、もしバルトが小説を完成させていたとしたら、それは『囀りとつまずき』だったかもしれない。(『囀りとつまずき』と『小説の準備』を読んでもらえばこれがまったくの誇張でないのはわかってもらえると思う)

(ジャンル横断的というのもまたすこし違うようにも感じる。今ぱっと思い浮かぶのは『恋する虜』のどの本棚にもおさまらない唯一無二な作品性。つまり「小説コーナー」「戯曲コーナー」「詩歌コーナー」「エッセイコーナー」「恋する虜コーナー」「囀りとつまずきコーナー」…)

うまくまとまらない。初読時も「数える」ことで何か見えるかもと思ってブログに書いてた気がするが、けっきょく数え終わることはなくダラダラっと締まらないまま、諦めてしまった気がする。『囀りとつまずき』は考え始めるときれいにまとまらずダラダラと考え続けてしまう。ダラダラと囀り、まとまらずつまずく、