仕事。と書くより勤労と書いた方がいいか。テストジャンキー、脱獄計画(仮)、エトセトラ・男性学特集。

『脱獄計画(仮)』、めちゃくちゃ面白い。ビオイ=カサレスの『脱獄計画』をまず読み直すかと本棚を探したが本が見当たらず……。仕方ないのでそのまま読んだが、これは読まずに読んだ方がいい、読み終わってから読んだ方がよさげ。読み終わってからじっくり謎解きメインで読み返したくなる。謎が解けるような答えがあるのかどうかはわからんけども。この戯曲(作品冒頭では「戯曲風の記録」と書かれてある。ただし続けて「この戯曲風の記録は、真実と虚偽がないまぜになっている」とも書かれてあるので、そのまま受け取るわけにはいかなそうだが)では「初演」というのが強調されているのだけど、1回目の読書では「初演」って公演初日のことかと思って読んでいたが、2回目読んだ時はどうも違うっぽいぞとなって調べたら、初演とは初めて上演された期間まるごとを指す言葉なのだと知った。ただ初演ってどこまで初演と呼ぶんだろう。たとえば初演がめちゃくちゃヒットしてそのままロングラン上演になったら、その期間すべて初演になるのか。そもそも初演と初演でない公演・再演とでは期間以外の違いはあるのか、とか演劇関連に無知すぎてそのあたりがちょっとまだよく調べ切れていない。まあともかくこの「記録」はたいへん面白かった。映像記録の方はまだ見ていないので、そっちの楽しみも残っている。「記録」にあるト書き(風?)の処理とか実際の演劇ではどうなってんだろ、演劇では全無効なのだろうか。「記録」ではこのト書きがト書きの範疇をよゆうでぶっちぎっててほんと笑う、ト書きが過去時制な時点でおかしすぎて笑ってしまう。

仕事帰りにボーはおそれているを見て帰ろうかと思ったが、調べたら180分もあり挫けてやめた。代わりにガンダム見てきた。まあガンダムシードっぽい内容で悪くはなかったが、同じような展開の焼き直しではあったなー。あと今回の敵は全員無慈悲にぶっ殺しててそりゃないだろキラ君とは思った。

映画鑑賞後に先週TOHO新宿では買えなかった『瞳をとじて』のパンフレットと絵本を買って帰った。『瞳をとじて』はもう1度見にいきたいが、今月はすこし金遣いが荒かったので財布の紐をしめるべきかも…



はてなスターを付けていただいた。ありがたい。今まで利用してない機能だったので、もらったスターの記録・スター通帳みたいなのはどこで見ればいいのだろうと探してみたら、はてなスター専用のページがあって、そこで見られた。今回がはじめてもらったスターだと思っていたが、過去にもらった記事がもうひとつあった。たぶんブログを更新しない間に通知が消えて気づかなかったとかだろう。申し訳ない。レアカラーのスターというのもあるみたいで、それははてなにお金を払って買えというシステムになっていたが、なんて良い記事だ、よし、はてなに金を払ってレアスターを付けよう、とはならんだろ。頭きらきら星かよ。ブログ文化が下火となり迷走した結果生まれた悲しき機能のひとつなのかもしれんな……

晩年のサドはなんでもかでも「数のシステム」といって、あらゆる物事は数に支配されており、その数の秘密を解きさえすれば幸も不幸も思いのまま、みたいな妄想にとりつかれていた、といった事を何かの解説で読んだ記憶があるが、昨日の記事も「数のシステム」に取りつかれた妄想だったかもしれない。私も大概わけのわからん物事に遭遇したら数を数えとけば良いと思っている節があるしな。

問題の27ページだが、レイアウトとしては左上から右下に向かって言葉のブロックが並んでいる。この詩集は縦、横、右上から左下へむかう斜めの線があったが、ここで左上から右下への斜線も確保されている。というわけでは左上、「水泳!」の叫び声なのか驚きの感嘆符なのか判断つかないこの3文字がこのページの始点となるのかもしれない。仮に「水泳!」を始点としてみたとき、ここでまたいつもの問いの手が私の思考に待ったをかける。この「水泳!」はタイトルなのか詩なのか? しつこいようだが、公式にはこの詩集の詩にはタイトルが一切ないとあるが、本当に? 私の読んだかぎりでは、この「水泳!」の驚く/叫び声は、27ページの「彼女の部屋」「彼の部屋」どちらにも繋がっていくようなイメージをもてなかった。いったいこの「水泳!」はどこから何に端を発した言葉なのだろうか。

あるいはこの「水泳!」を出遅れた言葉、いや逆に早すぎた言葉、ページの移動に巻き込まれた結果と捉えてみてはどうだろうか。この「水泳!」は28ページにつながる言葉であり、27ぺージから28ページへとめくられる紙の端で切断されて取り残されるというアクシデントにあった可能性もあるかもしれない。しかし28ページの詩と「水泳!」との間にもまた何かしらの繋がりを感じられない。この「水泳!」は27ページからも28ページからも浮いている、いやもっといって「水泳!」は、この詩集のすべての詩から浮いた言葉、周りからほとんど完全に切り離されて、単独で存在している孤独な声のように思えてならない。つまり本文とは切り離され、それのみで成立する言葉、これはタイトルの性格のひとつではないだろうか。タイトル/詩の法規、それは繰り返し、ずらし、折りたたみ、いかさまに掛けることであった。水泳、水の字が繰り返され、ずらしてある。泳、さんずいとしたみずという水の部首が一文字に折りたたまれてある。そして! これは日本語で雨垂れという!

水で書かれ、したたるほどに水で覆われたこの驚くべき叫びの一声。27ページの一連の詩のように見せかけ、詩の聯のようにひとつ以上の切断線をページに刻み込むこのタイトル/詩のいかさま。一ページに複数の詩が置いてあってもいいように、タイトルが本文に置いてあったっていいだろう。公式の言葉(「この詩集には一切タイトルがない」)に蜂起する詩の言葉(「水泳!」)。タイトル(『手のひらたちの蜂起/法規』)に蜂起するタイトル(『水泳!』)。詩人+出版元=創造主=法規に対する詩集の蜂起。はたして私が読んでいるのは『手のひらたちの蜂起/法規』なのか、『水泳!』なのか、それが問題だ! すくなくとも27ページの詩はまだぜんぜん読めてない。(つづく)

昨日は一日家事をだらだらとこなす。夜エリセの新作を見に行くかと予約しようとしたが、開始時間と終了時間になんか違和感が…新作は170分だった。明日気合をいれなおして見に行くか、と出かけるのは止めにした。

私は髪の毛を切るときは吉祥寺の美容院に行っていて、吉祥寺まで足を運んでいるのはそれくらいの用事を作らないと吉祥寺には行きそうにないからという程度の理由で、といって特別に吉祥寺に愛着があるわけでもない。なんで吉祥寺なのか深く考えたことはなく、ずっと昔から髪の毛を切るときは吉祥寺の美容院でとしていた。いや上京して知り合いにすすめられた一発目の美容室が吉祥寺だったのが事のはじまりで、そこからの延長でずっと吉祥寺に行っていただけだわ。と、それはまあどうでもいいのだが、いま利用している美容院の近くには百年という割とユニークな古本屋があり、髪の毛を切ってもらった帰りはだいたいそこにも寄るようにしている。そこで委託販売?されていた『手のひらたちの蜂起/法規』を購入したのだった。その日から前にも書いたが寝る前に数ページずつ読むかたちで読み進めていったのだが、はじめて27ページ目にさしかかった日は手が止まり、目も止まったものだった。そのページはあきらかにそれまでのページとは違っていて、どこに目をつければいいのかさっぱりわからず、そもそもをいえばその詩集は1行目からして意味がまったくわからなかったといえるが、そういう意味のわからないと27ページはまた別で、つまりどこから読めばいいのかどこがそのページの始点なのか、文章の意味の前にまずどこからはじめていいのかそれがわからないのだった。それはそう、ふいに落丁・乱丁に出くわしてしまったかのような戸惑いだった!(これはない。奥付に寄せて書いてるのがみえみえだった)

27ページは開いた詩集の左ページに位置しており、言葉が全部で4つのブロックにわかれている。上から数えていくと、ページの左上に「水泳!」の3文字、真ん中の上方に12文字×9行で書かれてある文章、ど真ん中に「27」のノンブル、その下方右寄りに19文字×5行で書かれた文章(真ん中上の第二ブロックを便宜的に「彼女の部屋」、右下寄りの第四ブロックを「彼の部屋」としておきたい)。「彼女の部屋」は中断なしの一息にながい文章となっており、文末に読点がひとつ打ってある。「彼の部屋」は途中に三度、読点を挟んで文末には句点。

さてどのブロックから手をつけていくべきだろうか。ここはやはり一番目立つページの中央、そのページの主役またはリーダー面した「27」からだろうか。前にも書いたがこの詩集のノンブルは全ページに記されてあるわけではなく、まるで数を読む声が息切れするかのように途切れ途切れにその足跡/息跡を記している。数ページ前からその兆候をみせていたが、27ページのノンブルは、詩の本文に過度な介入もしくは接触をおこなってはいないだろうか。そもそも、文字の占める領域のすくなくなりがちな詩集において、中央を位置どること自体がノンブルの性格を大きく逸脱してはいないだろうか。通常、紙片のすみに陣取り、目立つことを避けがちな数字たち、そんな陰キャな数字たちの蜂起の一声、声なき声、文字なき声が27ページの中から聞き取れないだろうか。この詩集の本文において数の表記は漢数字がもちいられており、「(番号をつけ忘れている)」「縁取り+椅子+通り=灌木-花瓶」(11ページ3行目、5行目)と数字の存在は等閑視されているかのような扱いも見受けられる。またおそらく唯一のアラビア数字を使った詩行・58ページ3行目「しっぽが32メートルしかないんだから仕方がない」、32はこの詩集のちょうどど真ん中にあたる数であり、当の32ページは白紙(ど真ん中のど真ん中は空白)でそのページからノンブルは姿を消している、ひょっとすると犬の背中につながる体長の半分を占めるほどのなが~いしっぽにこっそりと化けているのかもしれない。そんな数字たちの蜂起のなかにあって27ページのノンブル、27は、2×7、もしくは2・7、(2/7いやこれだと間違う)、2-7、二の七、ふたつのななは、本文の流れの中に、詩行の一つと化して真ん中に配されているかのようにも読めてこないだろうか。こないか。わからん。ともかく私には「27」をどこに置くべきか、どこに置くことが「27」にふさわしい位置となるのか、まったく見当もつかないのだった。

(つづく)

仕事。テストジャンキー、女たちの声、盗まれた遺書。盗まれた遺書は1篇1篇はちょっと弱い(作品のパンチとして)ような気もしたが、ぜんぶ読み終わると全体がよくわからん粘液が糸引くようなびみょ~なつながりみたいなものもあって、変な読後感で面白かった。短編の掲載順が雑誌発表順とほぼ逆なのは謎だった(文体や読みやすさの難易度からくる順番なのかなとも思った。いや短編集ってなぜかだいたい発表順とは逆なのばかりなので出版社の慣習的なものにしばられた結果なのかもしれんが)。個人的には発表順のままの流れの方がよかったような、特に表題作は最後にもってきた方がまとまりがよかったような気もしたんだが、まあそこは別にページ順にこだわらなくても本の最後から読んでいけばいいし、一回読み終わってから表題作だけ読み直すというのでもよいではないか。表題作のような語り手や登場人物が幾度も交代・後退していくような仕掛けは三宅さんに勧められたように好みではあったが、それ以外のカフカの変身やクローネンバーグのクリーチャーみたいなのが出てくる話もわりと、いやけっこう好きなのでした。こまかい読み込みが必要な小説ではあるので、気になる点(なんといっても登場人物の人間関係は書き出して図にして俯瞰してみたくなる)にしぼって読み返したくはなるが、将来に持ち越し。

ネットでエルド吉永の原画展を青山BC本店でやっているという記事を発見したので、仕事上がりにいってきた。その前にイメージフォーラムに寄って上映時間で近いものを確認したら、イオセリアーニの『水彩画』『珍しい花の歌』『四月』の短編映画セットをやっていたので鑑賞。その後ABCへ。原画と下絵が平行して飾られてて、どちらも何というか漫画から受けた熱量の高さがより強く感じられるような絵の数々でたのしかった。

ひさしぶりのABCだったのでいろんな棚を見て回っていたら、松江泰治の大型な写真集が出ていたのを見つけて興奮した。松江泰治は作品発表を追ってる写真家なのだが、といっても本屋にいったときに写真集コーナーでその名前を探すとかたまにネットで検索するといった程度のファンなので、だいたいいつも新作に出会うのは遅れがちである。一冊しか置いてなかったのでさっそく買って帰って、いつの出版か調べたら去年だったようだ。

前は「gazetteer」にはガゼッタという読みがあてられてたが、今はギャゼティアなのだな。

と、出版社のサイトを見てて、さらにずっと昔に出ていた3万円もする写真集がまだ売っているのを知って衝撃を受けた。

たぶん私が持っていない松江泰治の唯一の写真集で、今から何十年もむかし六本木の何というギャラリーだったか忘れたが、そこであった松江泰治の個展で、出版されたばかりのこの写真集のサンプル本を1時間くらい居座って1ページ1ページじっくり立ち読みするという貧乏な若者の微笑ましいエピソードがあったとかなかったとかなのだが、今ならすこし悩みつつも買えない金額ではあるな…。たしか当時はこれに実際のプリントされた写真も付いて8万円くらいしたエディションもあった記憶がある。(追記、いやプリント付きで8万円は安いような気がしてきた。もっと12万とかそれ以上だったような気もしてきたが、どうだったろうか(追記の追記、写真集の紹介文にTARO NASU GALLERYとあって、そうだそうだこのギャラリーだったわと調べたら、そちらのHPに特装版の情報があった。《*特装本 30部 黒布化粧箱入り、オリジナルリトグラフ"MALAYSIA 2002"付き¥88,000.-(消費税別)詳細は弊画廊までお問い合わせください。》やっぱり8万円台だったもよう。なかなかの記憶力だったな。付属されるのはプリントされた写真じゃなくてリトグラフだったが。品切れとは書かれてなかったので、こちらもまだ在庫がある可能性がゼロではなさそう))

3万円、悩みつつ、新しい写真集をめくる。

 

やたらに眠くて1日ずっと寝てた日。そういえば渋谷にいったついでにタワレコにいってみたがyonigeの新譜は売ってなかった。なんか記念本みたいなのはあったがCDぜんぜん見当たらん。

 

 

一昨日のつづきでいうと、カバーやカバー下の表紙、どちらが表でどちらが裏かも関係ないといえるかもしれない。右手のひらにくるカバーには詩人の名前とタイトル、左手のひらにくるカバーには出版元の名が来るが、そのどれがタイトルであってもいいんじゃないかと思えてならない。右から開くか左から開くかはあまり重要とは思えなくなってきているが、そのことはいったん棚上げして、今一度タイトルの問いに戻りたい。

カバー下の表紙には『手のひらたちの蜂起/法規』が斜めに記してあり、カバー上には文字がばらける形で『手のひらたちの蜂起/法規』がある。このカバーと表紙のタイトルでは法規の字が左右反転している。このことは本文(扉・37ページ・奥付)のタイトル/詩と明確な差を示している。またカバーのタイトルでは蜂起と法規を句切る斜線がなくなってもいる。デザイン上の問題としてカバーの左上を実際に切り裂いている斜めの線がそれにあたるとも思えるし、また蜂起と法規の間にある黄色く変色した手のひらのような形の枯れ葉が斜線の代わりとなっているようにも見える。もっといえば、カバーのタイトル、読者がまず一番に目にするであろうタイトルは、まるで落下してバラバラに崩れていくかのように、あるいは一文字一文字が無重力にただようにようにバラバラとなっていて、どのように読めばいいのかはっきりと把握することは難しいのではないだろうか。すべては詩を読んだあと、本文に目を通したあと、詩集を読み終わってカバーを閉じたあとにはじめて、あらためてタイトルを発見することになるんじゃないだろうか。それはカバー下の表紙に隠されたタイトルを発見することに似た発見なのかもしれないし、違うのかもしれない。カバーに散らばる文字たちをタイトル/詩にまとめることは可能だろうか。

(その後また詩集を開いて本文にちりばめられた詩行をまとめなおすことだって可能かもしれない。たとえば、

26ページ3行目「まるで中身が波のときだけ手紙が早く届く〔…〕」

40ページ7行目「知ってるけど知らないから知らない人からきた手紙食べた」

49ページ4行目「彼を折りたたんで封筒に入れ速達で森に送る」

これらの詩行は手紙=封筒や波=彼、速達=早く届くといった近似したイメージで、ちょっとした物語的なつながり、波/彼による誤配達されてきた手紙を処分=食べた、となっているにも読める。

あるいは、

4ページ3行目「飛び込んでしまえば建物を突き抜けた明かりが背中を焼き照らすじゃないか」

37ページ5-6行目「影あのように立ちあがって/空を削って燃やす」

57ページ12行目「壁に焼きついた影は影ではないようでいてやはり影とよばれる」

ここには循環する光と影の交代劇がバラバラになっているようにも読める。

さらにべつの宛先・交換先を探し出し繋げなおすことも当然可能だと思われる)

以上の前提を踏まえたうえで、ようやく本題に突入したい。あるいはタイトルの問いから問題を打ち上げたい。この詩集のほぼ中央に位置する27ページ、2段組み、3段組み、あるいは4段組みに段組みされた27ページ、奇妙な詩集のなかでも特に奇妙なこの27ページの衛星軌道にのってぐるぐると思考の深みにはまっていくタイトル/詩についてとうとうと考えてみたい。(つづく)

『海街奇譚』と『緑の夜』鑑賞。中国な一日、いや後者は韓国が舞台だったが。海街の方はかなり面白かった。とちゅうダラダラしてたところもあったが、アクションシーンは鈴木清順みたいにすぱっといくし、閉じられた小島のなかをカメラをもってうろつく変態殺人者という主人公の役柄が、ARG『覗くひと』を連想させて好みを突かれた。『緑の夜』はいい感じのハードボイルド映画だった。寡黙な主人公とファムファタルな緑髪の女という正にハードボイルド直球な組み合わせだが、主人公も女性なため男主人公とは違うタフさにひねりがくわわってて、ラストまでつづく絶望感からのカタルシスは手持ち撮影で揺れる画面から受ける3D酔いや説明くさい映像の下手さ加減も忘れてスカッとさせられた。途中の刑事の役所だけよくわからんかったが、あれは単に汚職刑事という事でよかったんだろうか?それにしても誰がなんのために手配したのかという謎ものこるが。

去年末に渋谷の店頭でみかけて欲しいけどと悩んでいたスウォッチとコラボしたシンプソンズ腕時計をとうとう買ってしまった。

いい歳したおっさんがこんなカラフルな時計をするのは…等といった卑屈な気持ちはさらさらないが、スウォッチはベルト交換が気軽におこなえる形でないのがどうにも好きになれなくて迷いに迷っていた(日中に渋谷をうろつく機会がなかったのもある)けど、まあ買ってしまった。ドーナツのイラストもいいけど、針のデザインがなんかよくってそこが決め手となりました。

 

つづき。37ページには横書き8行の詩があって、3行目に例のタイトル/詩があるんだが、垂直方向の読み筋は今のところまったく掴みどころが見つからないのでだんまりである。55ページ6行目、水平を計画しなさい、つまり詩とタイトルとの連関だが、これを自己模倣、自己物真似と見てもよいのではないだろうか。タイトル/詩に書きこまれてある法、それは語をずらし、模倣し、右左をパタンと入れ替える事である。蜂起は法規、法規は蜂起。右手のひらは左手のひらに、カエサルのものはカエサルに、キレイはキタナイに。手のひらたちによる手のひらたちのすり替え=イカサマ。交換可能性、ロカカカの実の等価交換性が、タイトル/詩の一文にはつねにすでに書き込まれてある。

奥付にはタイトル、詩人、出版元の名、詩集、著者、その他もろもろが縦書きと横書き、あといぬのせなかのイラストと混在で書かれてある。ここにある最後の一行、日本語で書かれた最後の一行、手のひらたちの法規の後に置かれた最後の法規として「落丁・乱丁本はお取替えいたします」とあるが、あらゆる出版物につきもののこの法規のなかの法規がかつてこれほど意味をなさない書物があっただろうか。断言できるが私には『手のひらたちの蜂起/法規』に落丁・乱丁があったとしても、絶対に気づくことはない。このことはこの詩集に印字されたページ数のあり方が大きく関わってもいる。この詩集にはページの中央にページ数、いわゆるノンブルが印字されてあるのだが、それは右か左、開いたページのどちらか片方というルールがある。どちらに印字されるかはおそらくランダムであり、そのうえさらに左右見開き空白という2ページが、6ヵ所挿入されてある(ちなみにこの空白は扉・奥付を除くと本文を5つのブロックに分けている。これは手のひらから切り離された手指なのか、暦にして放棄される五人分の影なのか)。ノンブルがもし右側だけ、もしくは左側だけといったルールにしばられてあるなら、一枚のページの裏表のどちらかにノンブルがあるわけだが、この詩集ではランダムなため裏表どちらもノンブルがないページがいくつも存在する。もしこの本の糊付けが剥がれて、ページがばらばらに落ちたとすると、元通りに復元することは不可能に近い。このような仮定に仮定を継ぐような話は冗長に過ぎるかもしれないが、そうじゃない。このような落丁・乱丁の確認不能がおこりえるのは、この詩集が、詩集そのものが交換可能性、ロカカカ等価交換性に結ばれているからこそである。法規(手のひらたちの交換可能性)が法規(落丁・乱丁本の交換可能性)に蜂起する。

タイトル/詩が交換可能なように、右ページ/左ページは交換可能なのかもしれない。扉/奥付は交換可能かもしれず、詩/詩もまた。

(著者またはレイアウトデザインした人、詩の並び順を考えた人にケンカ売ってんのかという内容になってしまっているが、もうすこし猶予をほしい。私がこの詩集最大の問題(この問題はハムレットの問題と同じ読み方で)と見ているページへと至るのにまもなくなので。つづく)

もうすこしタイトルについて。というか最後までタイトルについてしか書かないかもしれないが。「手のひらたちの蜂起/法規」この記述、マニフェスト、法令は『手のひらたちの蜂起/法規』のなかに5回出てくる(見落としがなければ)。1つ目はカバー、2つ目はカバー下の表紙、3つ目は本文1ページの扉、4つ目は37ページの3行目、5つ目は64ページの奥付。

このタイトルかつ詩の一節でもある一文は繰り返し、反復、重ね合わせ、折り畳み、などといった効果が読み取れるが、同時に反目、ずらし、裏切り、切り裂き、などといった効果も見て取れる。

カバーと表紙をすっとばして本文から見ていくと、扉には縦書きで詩人、タイトル、出版元の名が縦書きで3行にわけてある。詩人の名は後にまわすが、出版元の名称「いぬのせなか座」これだけでもすでに詩の一節であるかのような重層性が感じられる。いぬ座でもせなか座でもなく、はたまたこいぬのせなか座でもない、いぬのせなか座。「犬」も「背中」も「座」もこの詩集ではいくどとなくお目にかかるが、この「いぬのせなか座」が出版元の名ではなくタイトルである可能性、タイトルとしての資格、タイトルに成り代わり乗っ取るような企みはないと言い切れるだろうか。扉に関するルール「消える扉を走らせると消えるドアが選択されドアをノックするんじゃなくてノックしたところがドアなんです」20ページ5行目。扉はドアへとずらされ、ドアとノックの関係は主従が逆転するかのようにして反転させられる。1ページは扉=詩の本文の外、扉の前に位置していたはずのこの1ページは、扉の内、内と外をわける境界線の上をまたぎ、詩の本文に第一歩を踏み出している。タイトルは詩であり、詩でもあり、乗っ取られたタイトルがあるのであればそれもまた詩である。誰もがこう思うだろう、何を読ませられているのか。

タイトルに戻ろう。ノックとは通常手の甲、手の背中、もしくは折り曲げた指の背中で叩かれるものであり、手のひらでノックするとすれば、それはいささか礼儀に反した行為、常識に反した行為ともみなされる。手のひらたちの蜂起、常識=法規から切り離され、常識=法規に反逆する第一の蜂起。手のひらたちでのノック。あるいは折り曲げられた犬の背中でのノック。手のひらを背中と入れ替える、と51ページ7行目には書かれてある。そう、掟の門前ならぬ掟の扉前、ここをパスするには扉の内にいなくてはならない。この順序の転倒、論理の反転、時間錯誤、パンがなければケーキを食えのごときすり替え、万国の手のひらたちよ、もう一息だ。蜂起のための法規、詩を読むこと、できれば何度も繰り返し。詩に沿って/反って。

最後に手のひらとは何か。辞書によると、手首から指の付け根までの、手を握ったときに内側になる面をさすらしい。という事は手のひらから5本の指は切り離されているということか。手のひらでキーボードを打つなんてキーボードクラッシャーのイメージしかない。

(つづく)