『ウェルカムトゥダリ』ダリは好きな芸術家なんで見てきた。といっても作品よりキャラクターの方により惹かれているわけだが。ナルシスの絵とかも好きだけど。死の恐怖が創作の原動力になっているというダリの姿はちょうど読み始めた郡司ペギオ幸夫の新刊ともちょうどリンクしていて、いろいろ考えないこともないでもない映画ではあった。ダリのそばにいて何者でないと軽くみられる事にネガティブな感情をもつに至ったガラと、何者にもなれない(画家にはなれない)と諦めた後にダリに惹かれてアシスタントを務めることになる青年との対比・対立がメインだが、その間にいるダリもまた晩年のアートシーンでの評価の落ち目に最愛のガラの心離れと、何物もえられないまま終わりへと向かっていく様は何とも残酷な締めくくりではあった。それだけに数いるサンセバスチャンの一人でしかなかった青年がラストにダリを幻視するシーンは、不要ではないかと思うのだった。

『アステロイド・シティ』前作を見逃していたので、ひさしぶりのウェス・アンダーソン映画。いつになく複雑すぎる構造の映画で、1回見て内容の全貌をつかむのは難しいくらいだが、それはそれとしても映画作りのノリはいつもどおりなので、楽しい映画ではあった。まずある著名な演劇の脚本家を追うようなドキュメンタリーのテレビ番組?の体でモノクロ画面で映画がはじまる。脚本家が書く舞台演劇作品「アステロイド・シティ」の舞台背景を構想していくそのままに、カラー画面に移行してリアル背景の映画「アステロイド・シティ」が進行していく。カラー映画の合間合間に全3幕のキャプションが入り、モノクロ画面の番組シーンも挿入されていくが、物語の未来を先読みするように主人公はなぜ火傷をするのかだとか、3幕でのドアを開閉するシーンはきちんとドアを閉めてくれと1幕の時点で言及されたりする。特に奇妙なのがドアへの言及で、このドアのシーンというのはカラー映画で展開するシーンではなく、モノクロで展開するテレビ番組としての一場面であり、あくまで舞台裏を記録する体のドキュメンタリー番組で演出を指示するような言及というのは、どこかちぐはぐなものがあり、こちらの混乱に拍車がかかるのだった。後半ではテレビ番組のナビゲーター役の司会者が、間違ってカラー映画に映り込んで・入り込んでしまったり、主人公である父親が最後のどんちゃん騒ぎでカラー映画からモノクロ番組へドアを通って移動する(閉めるの忘れるなって言っていたドアってこの時のドアか?ここらへんの細かい点はもう一度見返さないとよくわからん)などなど、映画とテレビ番組の境目もあいまいになりつつ、最後に脚本家は自動車事故で亡くなっていたという衝撃の事実が、ウェス・アンダーソンらしくそれとなく素朴に明かされる。つまりモノクロ画面の舞台裏を記録したドキュメンタリー番組の登場人物は、すべて?か少なくとも脚本家は役者が務めていたという事になり、モノクロ番組もまたフィクションの作られたものであるという事が判明するのだが、その瞬間モノクロ番組もカラー映画も、そして誰も見ることがかなわない舞台演劇の「アステロイド・シティ」の三つの区切り・三つの点は、「フィクション」のなかに溶けて合わさり、結局のところこれはすべてがただ一つの、まさに観客が見たそのままの『アステロイド・シティ』というフィクション映画だけが網膜に残る、と頭のなかが一回裏返ってもとに戻ったみたいな、納得いくようないかないような実に変な映画体験のわだかまりを胸に抱えつつ映画館を出たのだった。