花粉がひどくてくしゃみがとまらない。瞳をとじてが新宿でまた見られるようになっていたので見てきた。過去3作の長編映画のつづきを描いたような自己言及的な内容でもあり、とてもよい映画だった。アナがアナ役のまま登場し、『ミツバチのささやき』での魔法の言葉が魔法ではなかったかのような演出がされていたが、このシーンではさらに映画内映画『別れのまなざし』で父が求めていた娘の無垢なまなざしが、映画内映画とは反転した形で父から娘に切り返され、無垢なまなざし=無関心の残酷さにアナが魔法の言葉をつぶやきつつ瞳をとじるという、正直これまでのエリセ映画の流れからしてここで終わるんだろうなと思ったくらいの残酷なシーンだったんだが、おどろくべき事に映画はその後も続いていき、しかも最後にまた魔法の言葉が映画内映画『別れのまなざし』で再現されて、2度目の、今度は父親が瞳をとじる場面で映画は終幕する。1度目のアナの拒絶的な「瞳をとじて」ではなく、ふたたび見開くための、きっと記憶をとりもどしふたたび父娘関係をやりなおすであろう奇跡をつよく確信させられる2度目の「瞳をとじて」で映画が終わるというのは実に感動的であった。

また『瞳をとじて』の父娘は、女に狂って母娘を捨て南に失踪する父親を描いた『エル・スール』のその後でもあったし、その夏の光だけでマルメロの絵を描いては未完のまま倉庫にしまいつづけた画家を撮った『マルメロの陽光』での、未完の作品を倉庫に溜めこむことへのアンサーのような映画内映画『別れのまなざし』の魔法の力でもあったんじゃないだろうか。

自作以外にもウェスタン映画への愛も感じられた(主人公の相棒のマックスには、ウォルター・ブレナンっぽさを強く感じた)が、今作の「まなざし」というテーマ性は、映画のまなざし=切り返しという事でドライヤーのファルコネッティへの距離感をつよく思い出させられたようにも思う。

あと酒を飲みすぎて記憶喪失になる男というのは中平卓馬を思い出さずにはいられなかった。そういえば中平展のカタログはいつできるんだろうと近代美術館のサイトを確認したら3/30からミュージアムショップに並ぶと書かれていた。まじかよ。4/7までの展覧会で3/30でないとカタログが購入できませんってどんな計画性で企画練ってきてんだよ…