さいきん仕事の行き帰りの電車でフィネガン1を読んでいるのだけど、実際なに読んでるのかわからないままダラダラと字面を追っているだけでそんな読書といえるのかどうか微妙な行為に疑問を感じつつもあったのだが、今朝そんな最中とーとつに天啓がふってきた。ながらく悩んでいた小説のラストの処理を解決する道筋がとつぜん浮かんだのだった。それから12時間ほど経って落ち着いた今ふりかえってみると、その道筋はフィネガン的なというかフィネガン翻訳的な語のずらしからやってきたとも言えるもので、そうするとわけもわからないままフィネガン読んでたがそれもまあ刺激になっていたのだなと思えるのだった。